ナル敬語とレル敬語
「先生はさっき帰った」を尊敬語で言うと、「先生は先ほどお帰りになりました」、または、「先生は先ほど帰られました」となる。かつては今よりずっと多くの尊敬の言い方があったが、数種類に絞られて、かなりシンプルになった。
菊地康人著『敬語』(講談社学術文庫、1997年)に倣って、「お帰りになる」の類をナル敬語、「帰られる」の類をレル敬語と呼ぶことにする。以下は、同書146ページから引用。
引用始め
一般にレル敬語のほうが盛んに使われているようだが、〔中略〕敬度はナル敬語のほうが高い。というより、ナル敬語「お/ご〜になる」のほうは、これから見ていく他の多くの敬語と同レベルの、敬語としてはごく普通レベルの敬度なのに対し、レル敬語のほうが、それらに比べてかなり敬度が軽いのである。
引用終わり
太字にしたのは私だが、この部分を認識している人が現在どれだけいるだろうか。おそらく、ほとんどいない。今や、レル敬語はすさまじい勢いで増殖し、少数派となったナル敬語使用者は、「丁寧すぎる」「年寄り」「昭和」と揶揄される始末だ。「丁寧すぎる」という評価は見当違いだが、年寄りであり昭和であるのは事実かもしれない。とはいえ、ナル敬語は「ごく普通レベルの敬度」の敬語なのだ。「お帰りになりました」は「召し上がりました」や「おっしゃいました」と同レベルの、ごく普通の尊敬語だ。
「お帰りになりました」より「帰られました」を用いる人が圧倒的に多くなったのは、かなり軽かったはずのレル敬語の敬度が上がったからなのだろうか。いや、そうではない。敬度というものは、「あなた」「食う」「やる(「与える」の意)」などを見ても明らかなように、下がることはあっても上がらないのが一般的だ。「御前(ごぜん)」は貴人の面前を意味する尊敬語だが、漢字で書けば同じ「御前」でも、「ごぜんさま」「おまえさん」「おまえ」では意味がだいぶ異なる。現代語の「お前」は、もはや尊敬語でも丁寧語でもない。
標準語におけるレル敬語の普及は関西弁の影響と新聞・テレビの仕掛けによる
前掲書146ページから147ページにかけて、次のような記述がある。
引用始め
ちなみに歴史的には、レル敬語は、東京の話し言葉では江戸時代にも明治にもわずかしか使われていなかったが、東京語以外の要素も取り入れながら標準語が制定されていく中で、東京でも昭和十年代ごろから使用が増えてきた、という経緯をもつ(金田弘氏による)。だが、今でも東京人の中にはレル敬語には今一つなじめないとか、ナル敬語のほうが敬語らしいという感覚をもつ人も少なくないようである。一方、上方では、レル敬語は江戸時代にも盛んに使われていた。おそらく今でも、レル敬語に対する意識は、単なる個人差というより、地域差もあろうかと思われる。
引用終わり
上方(かみがた)とは京都付近を指すが、広く関西地方ととらえることもできるようだ。「言葉は天気と同じで西から東へ移動する」と言われているから、上方で盛んに使われていたレル敬語が関東にやってきたと考えることはできそうだ。「うちら」「させてもらう/させていただく」のように。
いつのころからか、皇族に関するニュースを伝える際に、新聞やテレビでもっぱらレル敬語が使われるようになった。「殿下はご訪問になった」ではなく、「殿下は訪問された」。すでに述べたように、レル敬語の敬度が上がったのではない。メディアが何らかの理由で、皇族に対して用いる敬語の敬度を下げたのだ。
平等化を図ったということかもしれないが、日本人が敬語を使う際の心づかいも選択肢もなくしてしまうのは残念だ。日本語では、「よく来たね」「いらっしゃい」「ようこそおいでくださいました」などを相手との関係によって使い分ける。「いらっしゃい」だけにするべきだ、と言われたら、皆、困ってしまう。遠路はるばる訪ねてきてくれた恩師に、なじみの店で鰻重の特上を振る舞おうとして、「うちはもう並だけにしました。若いお客さんが増えたんでね。並も安くておいしいですよ」と言われたらがっかりする。今日は特別の日だから、高くておいしいものを食べにきたのに。
次の展開が予測できないレル敬語の紛らわしさ
動画のコメント欄に、「誹謗中傷された方は」で始まる文があった。その部分を私は、「誹謗中傷という被害に遭った人は」の意味にとった。「する」の受身形の「される」、「人」の尊敬語の「方」が使われていたからだ。少なくとも私はそう理解した。したがって、そのあとにはたとえば、「泣き寝入りしないで、しかるべき措置を取ったほうがいいです」とか「さぞ辛い思いをなさったことでしょう」とかいう文が続くのだろうと思った。
人は、聞くときでも読むときでも、常に次の展開を予測している。聞いたり読んだりするという行為は決して受動的ではなく、能動的なものだ。常に頭を働かせている。だから予想外の結論、たとえば落語のオチを聞いて、どっと笑う。びっくりした。そう来たか。ああ、面白い。
さて、私の予想に反して、「誹謗中傷された方は」のあとには、「自分や家族が同じ目に遭ったらどういう思いをするか、考えたことがありますか。大いに反省すべきです」と書いてあった。「誹謗中傷された方」というのは、被害者じゃなくて加害者のことだったのだ。驚いた。書き手は「する」の尊敬語として「される」を使ったのだ。「誹謗中傷という行為をなさったお方」? そんなバカな! ちょっと待ってもらっていいですか!(←私は「〜してもらっていいですか」をこの表現のときだけ用いることにしている。「待て!」と完全に同じ意味だ。したがって、頼みごとをするときには使わない。失礼だから。丁重そうな表現の陰に隠れた命令、羊の皮をかぶった狼みたいなものだから。)
これを書いた人は、常日ごろ丁寧な言葉を使っているのだと思う。コメント欄に乱暴な言葉で書き込む人もいるが、この人はそんな品のないことはしない。しかし、「誹謗中傷する人」の意味で「誹謗中傷される方」と書いたのは適切ではなかった。「する」と「人」をどちらも尊敬語にしてしまった。通常、悪いことをした人に尊敬語は使わない。だからと言って、わざわざ加害者を貶めるような表現を使う必要もない。普通の言い方をすればいいだけのことだ。「誹謗中傷する人」でいいのだ。そう書いておけば、誤解は生まれない。
助動詞レル(ラレルも同じ)が二度出てくる文を見かけた。
Aさんが怒られた理由、よくわかります。あんな酷いことされたんだもの。
前半の「怒られる」は尊敬語で、後半の「される」は受身だ。前半を聞いて、「Aさんが誰かに怒られた」と思ってしまう人もいるだろう。後半だけを聞いて、「Aさんが酷いことをした」と勘違いする人、つまり、「された」を「した」の尊敬語とみなす人は少ないかもしれないが、先の「誹謗中傷された方」はまさにこれなのだから、誤解する人がいないとは言いきれない。なかなか厄介だ。
「怒られる」は形の上から言えば確かに「怒る」の尊敬語だが、「怒る」や「叱る」や「注意する」は「管理人に怒られた」「親に叱られた」「先生に注意された」など、受身で使うことが多いため、誤解を与えないように、尊敬語であることがはっきりわかる言い方にしたほうが無難だ。ところが、「怒(おこ)る」のナル敬語「お怒(おこ)りになる」、「怒(いか)る」のナル敬語「お怒(いか)りになる」は何となく使いにくい。
目上の人が怒(おこ)ったり、怒(いか)ったり、腹を立てたり、かっとなったりする様子をことさら言い立てることをしないのが礼儀だからだ。非難めいたことを言う場合、「あの先生はすぐにかっとおなりになるので、私は苦手です」と尊敬語を使うのではなく、「すぐにかっとなるので」でいいわけだ。さらに例を挙げれば、ナル敬語で「先生がお殴りになった」「先生がお殺しになった」も言わない。「先生が殴られた」「先生が殺された」にいたっては、それを尊敬語だと思う人はまずいないだろう。
レル敬語では誤解が生じかねない、ナル敬語も動詞の性格上使いづらい場合、どうしたらよいだろうか。「Aさんが怒った理由、よくわかります」の尊敬表現として、次のような言い方が考えられる。動詞「怒る」の代わりに「立腹する」、あるいは名詞の「怒り」を使うというものだ。
Aさんのお怒りはよく理解できます。
Aさんがご立腹なさった理由はよくわかります。
後半部分の「あんな酷いことされたんだもの」は、尊敬語ではなく受身形だからそのままでもよいと思うが、勘違いする読み手がいないとも限らないので、念のために、次のようにしてみてもよいだろう。
あんなに酷い仕打ちを受けたんだもの。
このようにすれば、誤解はまず生じない。
ナル敬語のすすめ
助動詞レル/ラレルには尊敬と受身以外に、可能と自発もある。使い分けがひどく難しいわけではないが、紛らわしさは否めない。
尊敬:先生は先ほど帰られました。
受身:先生にほめられた。うれしい。/「一緒に帰ろうね」と友達が言うからそのつもりでいたのに、先に帰られた。何だ、あいつ?! いったい、どういうことなんだ!
可能:「途中まで送っていこうか?」「大丈夫。一人で帰れる」
自発:あのとき話を聞いてあげなかったことが非常に悔やまれる。
レル敬語は作り方は簡単だが、誤解を生むことがある。また、誰にも彼にもレル敬語では、面白み、趣に欠ける。(年寄り、昭和の)私としては、今後も「ごく普通レベルの」尊敬語であるナル敬語を使っていくつもりだ。