敬語は「習って、倣って、実践して、慣れて、自分で考えて」の繰り返し

「習うより慣れよ」だけではダメ

「習うより慣れよ」を辞書で引くと(この記事の語義はすべて、大修館書店「明鏡国語辞典」による)、「人に教えられるよりも、実際に経験を重ねたほうがよく覚えられる」と書いてある。

「門前の小僧習わぬ経を読む」と共通する部分がある。この諺の意味は、「常日ごろ見聞きしていると、いつの間にか習わないことも覚えてしまうということ」。

「習う」は、「知識・技術などの教えを受ける。教わる。また、教わったことをくり返し練習して身につける」。同じ読みの「倣う」は、「すでにある物事をまねてそのとおりにする。手本としてまねる」。「慣れる」は、「何度も経験するうちに、そのことがうまくできるようになる。習熟する」。

二つの諺と三つの動詞が示していることは、敬語を身につける上でどれも必要になってくる。「習うより慣れよ」も「門前の小僧習わぬ経を読む」も、習うなと言っているわけではない。人は皆、誰かに教えてもらうか、あるいは見よう見まねで、新しいことを覚える。見よう見まねというのも、教わっていることに変わりない。自らの意思で、習い、倣っている。

教えられたことを自分のものにするには、その後の練習、それも繰り返し練習することが不可欠だ。さらにもう一つ大事なのが、自分で考えて工夫すること。これは車の運転でも楽器の演奏でも料理でも敬語でも同じことだ。ルールを知り、実践し、工夫する。独自の考えや工夫が失敗に終わることもあるが、そこは微調整していけばいい。

すでに持っている知識を基にして自分で生み出す

「よかりましたー♪」
幼い子供が発した言葉だ。大切なおもちゃがどこかに行ってしまい、家中探しても見つからない。ほとんど諦めかけていたときに、おもちゃが出てきた。周りの人が「よかった、よかった」「よかったねー」と言うのを受けて、満面の笑顔で「よかりましたー」と言ったのだ。この言葉を誰かに習ったわけではない。当然だ。こんな言い方は日本語にないのだから、聞いたことなどあるはずがない。

「こんなことしちゃダメだよ。わかった?」と、大人は、ちょっとしたいたずらをした子供に言う。やや深刻な悪さをした場合は、「二度とこんなことをしてはいけません。わかりましたか」と丁寧語で叱ったりする。敬語を使うと重々しくなる。それを子供はしっかり観察している。

この子は考えた。心の底からの喜びを表現するのに「よかった」では軽すぎる。これまでの人生において最大の歓喜と安堵を味わったのだ。重々しく改まった言い方をしなければならない。それで、「よかりました」を生み出した。「わかった」の敬語が「わかりました」なら、「よかった」の敬語は「よかりました」に違いない。敬語を使うことによって、自分が軽い気持ちで言っているのではないことを示すのだ。

子供だけでなく、大人も実は同じことをしている。習ったことがなく、当然だが慣れていない言葉や表現というものは誰にでもある。私たちはそんなとき、既知の情報を基にして類推する。類推した結果が間違っていることもあるが、周りの人に指摘されたり自分で気づいたりして直すことができる。間違ったまま覚えて、それに慣れてしまう場合もある。定期的に自己点検を行って、誤りを発見したら軌道修正すればいい。

定着してしまった誤用例としては、「それは違くて」(正しくは、「そうではなくて/それは違っていて」)、「見たくれ」(「見てくれ」外見の意)、「持ってこればよかった」(「持ってくればよかった」)、「行けれる」(「行ける/行くことができる」)などがある。誤用例と書いたが、これらが方言である場合もあるから、あくまでも、標準語としては正しくないということだ。今や慣用となった「食べれる/見れる」などの「ら抜き」言葉も、間違いだという指摘がなされるずっと以前から、一部の地方では普通に使われていた。「ら抜き」がその地域においては標準的な言い方だったのだ。

敬語を身につけるためにすること

それでも標準語、とりわけ標準語の敬語を身につけたいと思っている人はいるだろう。その場合、まずは、標準語の敬語を自由自在に操れる人を見つける。そして、習う、倣う、練習する、慣れる、経験を重ねる、という作業を地道に続けていく。

生身の人間を先生や手本とするのが一番だが、そういう人が身近にいなければ、書物やドラマを参考にしてもよい。ただし、人の言うこと、敬語のハウツー本に書いてあること、ドラマの登場人物が言っていることを、鵜呑みにしたり無自覚に模倣したりしないことだ。間違っている場合も(多々)あるし、正解は一つでないことがほとんどだから、自分でよく考えて、どれを採用するか最終的に決定するのは自分自身だ。

さて、先に書いた「よかりましたー」と言った子供に、大人はどのように対応したか。結論から言うと、何もしなかった。「『よかりました』は間違いです。『よかったです』と言うのです」などと教え諭さなかった。幸福の絶頂にいる子供に水を差すことなく、「ホントによかったねー」と繰り返しただけだ。

しかし、その後まもなく、何かの折りに大人たちが「よかったですね」「本当によかったです」と言い合うのを子供は聞いた。そこで子供は理解したかもしれないし、あるいはそのような場面に何度か遭遇したのちに悟ったかもしれない。少なくとも、その後この子が「よかりました」と言うことはなかった。子供は習い、倣い、自分で考え、ちょっと失敗して、また習って、倣って、慣れていく。程度の差こそあれ、私たちが敬語を身につけていくプロセスも同じだと思う。

投稿日:
カテゴリー: 未分類

作成者: マチルダ

マチルダこと野口恵子です。昭和27年(1952年)11月に愛知県瀬戸市で生まれ、東京で育ちました。現在は埼玉県在住。日本語とフランス語を教えています。著書に、『かなり気がかりな日本語』(集英社新書)、『バカ丁寧化する日本語』『失礼な敬語』『「ほぼほぼ」「いまいま」?! クイズおかしな日本語』(以上光文社新書)などがあります。このブログでは主として日本語の敬語について書いていますが、それ以外の話題に及ぶこともあります。どうぞよろしくお願いいたします。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です